第 4 章    テコンドー組織発達の歴史的経緯    〜補足: 競技化とルールの発達について〜


4. 補足: 競技化とルールの発達について

1960 年代中頃に韓国国内で競技化の問題が浮上したころ、テコンドー界では熾烈な論争が繰り広げられた。崔泓熙将軍と黄琦氏が競技化を反対したからである。

その理由は以下の通りである。

『テコンドーの競技化は、テコンドー技術の大要素である型、対練(組手)、撃破(試し割)の中の対練(組手)だけをもって勝敗を決定することから不合理である。

したがって、試合を行うに際して着用される防具が技術を完全に発揮させることができなくなる。』とし、反対。

— 1966年   崔泓熙著「テコンドー教本」p.294 —

『武術とは元来、人間の生命を直接的な対錬(組手)を通じてやりとりするものであるから試合は不可能である。

技術がその形体や方法から根本的に変わってしまうので競技化は慎重に考慮されなければならない。』とし、慎重論を唱えた。また『競技化は結果的に武道精神を無視することになり、段位、級位の審査制度が不必要になる。』として反対。

— 1971年   黄琦著「手搏道教本」—

しかし、「テコンドーの発展のためには武道からスポーツへと転換させなければならない」と主張した若手の智道館代表:李鍾佑(イ・ジョンウ)青濤館代表:嚴雲奎(オム・ウンギュ)らによって、それまで各流派別で個別的に試行されていた競技規則を統一制定する活動が積極的に推し進められた。

ちなみに、日本国内で初の防具着用空手競技を実施した「錬武館/現:財団法人全日本空手道連盟「錬武会」旧名:「韓武館/1945当時」の館長:尹㬢炳(いん・ぎへい):本名 尹快炳(ユン・ケビョン)は智道館の代表であったことから智道館が防具着用競技化に対し先頭を立って行ったと推測される。

1962 年から試験的競技を進めていたテコンドーが全国舞台にはじめて登場したのが 1963 年 10 月 24 日、全羅北道全州にて開催された「第 44 回全国体育大会」であった。

当時、正式種目として採択されたテコンドー(テスドー)競技は全羅北道全州に基盤を置いた智道館の選手達であった。

彼らは 63 年日本空手道(練武館と推測される)との親善試合も行っている。主に揚げられる試合は、1965 年 4 月 18 日に開催された第1回全国テコンドー新人選手権大会、また、1966 年 7 月 23 日にハンソン女子高で開かれた第1回中高大種別個人選手権大会、そして、1966年10月28日に開催された第1回大統領杯争奪全国テコンドー大会である。

最後に揚げた、この「第1回大統領杯争奪全国テコンドー大会」は1チーム6名(5名と補欠1名)で構成された団体戦であった。当時、団体戦は個人選と共に一般的で、選手達は所属する館や所属団体の看板を背負い、勝敗をめぐっては多分に団体間の摩擦を生じさせていた。

このような中、開催された大会競技場では、殺伐とした空気のもと、さらに軍人選手団の決起盛んな応援や威嚇心が加わり競技場は騒乱の場と化していた。

当時審判員として活躍したホン・ジョンピョ氏は「海兵隊と空軍部隊の選手が睨み合って試合をするときは審判達も緊張しました。

判定に対し、物言いがつくと客席の海兵隊と空軍部隊の間で乱闘が繰り広げられ審判達は恐怖から隠れ場所を探すほどでした。

所属部隊の将校が出てきて命令調に言葉を発するとはじめて事態が収まるありさまでした。」と回想談を述べた。

これら試合から、ルールが纏まりを見せたのが、おそらく 1962 年からであると推測される。当時の競技はすべて組手競技のみを行うのが一般的で、防具として胴のみを着用(ただし、着用は自由)した。それ以前は面をつけ顔面パンチも行なわれたが防具が重く機能的でない、また、高価な割にすぐ壊れてしまうなどの理由から普及されなかった。

この年に定まったルールがその後の発展を遂げるルールの基準となった。内容は胴(防具)のみを着用しての直接打撃ルールで「ポイント & KO 制」だった。また、このルールでは手による顔面への攻撃とローキックが禁止されていた。

私の主観ではあるが、どうも、テコンドーの競技化は「智道館」が主軸になったようである。

ITF 発足後の ITF 正式ルールでは「型競技」、「試し割競技」、「組手競技」が採用され、組手競技にはジョン・リーが考案した手足のプロテクター(現在とほぼ同じ)が使用され、顔面パンチあり、ローキックなしのポイント制ルールとなった。

現在は在米コリアンの学者が中心となって70年代から、失敗を何度も繰り返しながらも電子防具(打撃を受けるとセンサーが電波を送信し、電光掲示板に示される)の考案が引き続きされている。いつか、この開発が本当の意味で完了した時にはルールが変わるものと思われる。また同時に、打撃系諸流派の競技統合化も促されると推測される。

金 省徳
2002 年 2 月記
2006 年 6 月追記

参考資料