第 5 章    創始者の証言    ~中国と日本への普及活動;大山倍達


~中国と日本への普及活動;大山倍達

キム博士:

有史以来韓国は、中国や日本と文化交流をしたり戦ったりしてきました。テコンドーが初めて中国に紹介されたのはいつですか?中国にテコンドーを紹介した意義はどのようなものですか?

崔将軍:

ご存じのように、韓国と中国は地理的に非常に近い場所にあります。中国は大国として、兄が弟に接するように韓国に接してきました。この考え方を、テコンドーは逆転させました。1959 年、ベトナムでの三週間の滞在の後、中華民国(台湾政府)は台北での演武会のために、韓国のテコンドー演武団を招待しました。我々は台北と台南で演武会を行いました。我々の台北での演武会には、多くの台湾政府の高官が臨席し、その中には総統の息子で、共和国で第二の権力保持者だった Chang, Kyung Kuk 氏もいました。

1967 年、中華民国(台湾)を公式訪問中に、総理大臣の Jung, Il Kwon 氏が、台湾軍にテコンドーを教える指導者を派遣してもらいたいと蒋介石総統から頼まれました。私は 5 名の優秀な指導員を選び、Hong, Sung In 中佐の指揮の元に彼らを台湾に送りました。1 年後、私が台湾を訪れると、Hong, Sung In 中佐がこう言いました。「今や韓国は先生の国となり、中国(台湾)が生徒の国になりました」。テコンドーは、それまでの両国の兄弟の関係を、師弟の関係へと変えたのです。

テコンドーを中華人民共和国に普及するのは容易な仕事ではありませんでした。大陸の中国人は、アジアの全武道の起源は中国だと信じていました。彼らは、他国から武道を学ぶことを望んではいませんでした。1982 年までに、私はたいへんな人数の指導者を蓄積し、朝鮮民主主義人民共和国体育協会副会長の Deuk Jonn 氏に、我々のために大陸の政府と接触してもらえないかと頼みました。やがて両国(中国と北朝鮮)は、1986 年に武道交換プログラムに同意し、私は 30 名の北朝鮮の指導者団を、親善使節として北京に引率しました。

我々は、中国武術連盟会長の Suh Jae 氏に温かく受け入れられました。演武会は北京と上海で行われました。会場は多くの見物人で埋まっており、演武会の成功は、中国に、テコンドーの普及を非公式に認めさせることになりました。翌年、延辺大学の Choi, Bong Ki 教授が、70 名の生徒にテコンドーを教えるために私を招いてくれました。テコンドーは次第に中国全土で教えられるようになりました。

キム博士:

なぜあなたはテコンドーの師範を日本へ送ったのですか?日本へテコンドーを紹介したことには、どんな意味があるのですか?

崔将軍:

私がテコンドーを創った最も大きな理由の一つは、日本の空手との違いをはっきりさせる、ということでした。

私は技術において、また哲学において、テコンドーの空手に対する優越性を示したかったのです。1960 年から、私は東京でテコンドーの道場を開くことを夢見ていました。しかし私は 20 年も我慢しなければなりませんでした。

1981 年、私は東京で開かれた朝鮮統一会議でテコンドーの演武を行うように招待されました。パク・チョンテ師範、Kim, Suk Joon 師範そして Jong, Young Suk 師範は素晴らしいテコンドーの演武を披露しました。その後、観客の 1 人だった全鎮植氏が私に近寄ってきて、東京でのテコンドー道場の建設を強く勧めました。

彼は日本の有名な朝鮮人実業家で、費用はすべて彼が持つと申し入れてくれました。1982 年の 9 月に、我々は東京で道場を開きました。私は全氏に心から感謝しています。彼は数年前亡くなりました。彼の援助のおかげで、何千もの日本人が毎日テコンドーを学んでいます。

日本の生徒たちが韓国の国旗や韓国人の師範に礼をしているのを見たときに、私の心に、祖国の日本占領下時代の日々が甦りました。

私は、韓国独立のために犠牲になった人々に、心から敬意を表しています。

キム博士:

あなたと大山倍達氏は、かつてテコンドーの普及のために共に働こうとしましたが、この協力関係は成功しませんでしたね。

崔将軍:

1966 年、アメリカから戻ってくる途中、私は東京に立ち寄りました。私の友人が、大山倍達が日本の国籍を取ろうとしていると教えてくれたのです。

ご存じのように、大山倍達は朝鮮で生まれています。彼は大変幼い頃故郷を離れ、人生のほとんどを在日朝鮮人として過ごしてきました。

私は彼に会って、彼が日本国籍を取るのを止めさせようとしました。

最初に私は、彼の空手における功績を褒め称え、そして彼の韓国にいる弟の生活について話しました。

私は、韓国は彼のような人間が必要だから、韓国に帰ってくるべきだと告げました。

我々は、テコンドーの発展のために共に働くべきでした。そしてもし彼がそうしてくれたのなら、彼の名前は韓国の歴史に残ったことでしょう。

大山師範は、私の話はよく理解したといって家に帰り、翌日また会うことを約束しました。

次の日の朝、私は大山師範の仲の良い友人である Lee Sung Woo 氏から、前日の午後私と大山師範が話をした後、大山が Lee 氏を訪問したことを聞きました。大山師範は Lee 氏にこう言いました。

「自分は朝鮮で生まれたが、幼い頃日本に来た。佐藤栄作首相のおかげで今日ここまで成功することができた。佐藤首相が自分に日本人になることを勧めてくれたんだ」

Lee 氏と話した後、私は大山師範が日本国籍を取ることをためらっていると思いました。そこで私は大山師範を韓国へ呼びました。我々はソウルと非武装地帯(軍事境界線南北 4 キロ地帯)を訪れました。私は彼のためにテコンドーの演武会を企画しました。

それから我々は彼の故郷を訪問し、彼は弟や親戚の人と再会しました。私はまた KBS テレビの、彼へのインタビューも企画しました。日本に戻る前、彼は金浦空港で私に言いました。

「単純に考えて、自分はこのような環境の中でやっていけるとは思えない」そして彼は韓国を去りました。

別々の道を歩みましたが、私たちは血を分けた兄弟として誓い合いました。私が兄で、彼が弟でした。

キム博士:

なぜテコンドーはこんなに速く世界中に広まったのでしょうか?

崔将軍:

最初に、交通機関の大変革が挙げられます。1959 年から、私は何千何万マイルもの旅をして演武会を開き、セミナーや世界選手権を行ってきました。ジェット飛行機がなかったら、世界中を旅することは不可能だったでしょう。

2 番目の理由は、印刷技術と電子機器産業のおかげです。何百万ものテコンドーの指導者や生徒たちは、テコンドーを私の教本や、ビデオや、CD-ROM から学んでいます。

3 番目の理由は、テコンドーは他の武道に比べ、格段にすぐれた技術を持っているからです。その哲学は私自身の個人的な経験と、アジアの英知に基づいていますし、技術は科学的原理に基づいています。

そして 4 番目の理由は、世界中でテコンドーを教えている指導者たちのおかげです。

キム博士:

ITF と WTF の融合は、南北朝鮮の統一を容易にすると思いますか?

崔将軍:

はい。北朝鮮は ITF に所属していますし、WTF は韓国に所属しています。テコンドーの統一は、政治家を含めた様々なグループが、朝鮮半島の統一に向け動き出すきっかけとなるでしょう。

韓国にいる指導者たちは、海外にいる指導者たちと同等の発言の自由を持っていません。ですから、海外にいる指導者たちが、南北朝鮮の橋渡しになるような大切な役割を果たし、務めるべきなのです。ITF と WTF の間の扉を開くには、海外の指導者たちが両方の連盟のセミナーや演武会や選手権大会に出場すべきです。2 つのグループの指導者たちが頻繁に接触すれば、不信感も消えていくでしょう。このような形の環境を整えて行くことが、朝鮮の統一のための重要な歩みとなるのです。

キム博士:

もし韓国へ戻ったら、最初に何がしたいですか?

崔将軍:

私が一番初めにしたいことは、母の墓を訪れて敬意を表することです。私の人生は母に負うところが非常に多くありました。しかし私は、マレーシアにいたので母の死に目に会うことができなかったのです。

二番目にしたいことは、古い友人を訪ねることです。軍隊にいた頃の古き良き時代の思い出を話したいです。

そして三番目にしたいことは、私のテコンドーの教え子たちを訪問して、彼らが今どうしているのか見たいです。

キム博士:

あなたの健康状態が完璧であることは知っています。あなたがセミナーで毎日6時間も指導をしているのを見た時は非常に驚きました。しかしあなたはいつかこの世を去ります。その時、あなたはどこへ埋葬されたいと思いますか?

崔将軍:

ええ、私は 80 歳を過ぎていますが、大変健康です。しかし明日のことは誰にもわかりません。私は、自分の生まれた場所ではありますが、北朝鮮に埋葬されたくはありません。

また若い日々のほとんどを過ごした韓国にも、埋葬されたいとは思いません。

私が世を去るときは、三番目の故郷であるカナダに埋葬されたいと思います。

キム博士:

あなたのライフワークであるテコンドーのことをお話下さってありがとうございました。

崔将軍:

こちらこそ、どうもありがとう。

~『テコンドー・タイムズ 113 号(2000 年 1 月発行)崔泓熙総裁へのインタビュー』~