5. 「研ぎ澄まされた技法」と「意外性の実践」
先に述べたように現代武道の技法は、安全性を図るための規制を用いた競技技法と自己の生命と財産を守るための規制を用いない護身技法とに区分される。
競技技法は規制された枠の中で最も効率的な方法と手段を練っていくために、ある一定の完成に達した「セオリー」が生まれる。これがいわゆる「競技スタイル」である。
一方、護身技法は、本来自らの身を守る、すなわち、不意に訪れる敵の計画的奇襲から逃れるという性格上、なんら技法の制約はなく、今日に至るまで数限りない対処法が先人たちの手によって編み出されて来た。したがって、一定の流儀という性格を帯びるものの、その膨大な技法数から完成された「セオリー」は存在を成し得ない。
競技技法は規制条件が多くなればなるほど、使用可能な技法が限定されるため、その技の洗練度は高くなり、逆に規制条件が少なくなればなるほど、使用可能な技法が数限りなく多くなる。そのため、想定されるすべての技法を習得して行くならばその技の洗練度は前者に対し相対的に低くなる。
これは、技の習得に努める人間そのものに時間的、肉体的限界があるからにほかならない。したがって、護身技法を習得するものは時間的、肉体的限界内において習得可能な効果的な技法を研ぎ澄ませざるを得ない。
これは「不完全」ではあるが一定の流儀を備える傾向に進む。「不完全」ということは即ち、完全無欠の武道技法など存在しないということであり、例え「無敗」を誇る流儀であっても戦いつづければいつか必ず負けるということである。
「研ぎ澄まされた技法」と「意外性の実践」とは技法の使用を終えて始めて判る結果論であり、確率論に他ならない。しかし、これらは武道技法において、想像成し得る最上の形であると私は考える。至極シンプルではあるが「研ぎ澄まされた技法」とは修練の量をもって培った上質な技法であり、秀でた技法である。これは、実戦性の高い技法を用いる競技であれば、その競技技法の修練も実戦技法修練と大きく変わらないため、時には、この「量」を積んだ競技者が実戦経験豊富な格闘家や武道家に勝るケースが多々ある。
ただし、競技ルールの下でしか使用されない、いわば非実践的なポイント目的の技などの習得は言うまでもなくこれに値しない。また、「意外性の実践」とは対峙する者たちの既成概念から外れた技法の実践である。したがって、情報メディアの発達した現代において日増しにこの「意外性」の度合いが薄れて行く中、格闘、武道界における多くの情報を制することが重要視されることは言うまでもない。
情報戦を制し(敵を知り)、自己の相対的な技量を知り、明確な戦略を立て、己を克服(する道こそが最上の技量習得方法であると私は考える。