~1966~1972:ITF 創設、ベトナム戦争、カナダへの亡命
- キム博士:
- 1966 年、あなたは国際テコンドー連盟(ITF)を創立します。この組織を設立した目的と、当時あなたを助けてくれた人のことを教えて下さい。
- 崔将軍:
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1965 年、私が大韓テコンドー協会の会長をしていた時、在西ドイツ韓国大使で私の友人だった崔徳新将軍がヨーロッパにテコンドーの親善使節団を迎えたいという声があることを教えてくれました。彼は、ヨーロッパとアジア 6 カ国から使節団派遣が公式の招待となるように手配してくれました。私は政府に対し、正確な旅費の文書を提出しました。この使節団の名前は「国技テコンドー親善使節団」でした。私が公式文書に、国技テコンドーという言葉を使ったのはこの時が最初でした。
この使節団のメンバーは Han, Cha Kyo、Park Jong Soo、Kwon Jae Hwa、そして Kim, Joong Keun で、私が使節団長でした。私たちは、西ドイツ、イタリア、エジプト、トルコ、マレーシアそしてシンガポールを遠征しました。演武会は大成功し、結果的に遠征した国々でテコンドー協会が創設されることになりました。1966 年の 3 月 22 日、9 カ国の代表者がソウルに集まり、国際テコンドー連盟(ITF)が創設されました。
与党共和党委員長の金鐘泌氏が名誉会長に選ばれ、私は総裁に選ばれました。マレーシアの通商産業大臣である Lee, Han Ra 氏が副総裁に選ばれました。事務局長に嚴雲奎(オム・ウンギュ)、技術委員会の委員長に李鐘佑(イ・ジョンウ)が選出されました。
国際テコンドー連盟の創設は、国際機構の本部が韓国に創られたこと、そして韓国人が総裁を務めるという点において、韓国史上初めての出来事でした。国際テコンドー連盟の創設メンバーとなった国々は、韓国、ベトナム、マレーシア、シンガポール、西ドイツ、アメリカ合衆国、トルコ、イタリアそしてエジプトでした。連盟は急速に大きくなり、たった 2 年で 30 カ国が加盟しました。
- キム博士:
- ベトナム戦争の間に、どのようにテコンドーは広く普及し、多く訓練されるようになったのですか?
- 崔将軍:
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ベトナムは、テコンドーが大々的に教授された最初の外国です。前にも言いましたが、ゴ・ディン・ディエム大統領は 1959 年の我々の演武会に強い感銘を受け、指導者たちに、ベトナムの軍隊で教えて欲しいと要求しました。
最初の師範団は、南太熙(ナム・テフィ)少佐の引率で 1962 年にベトナムに着きました。この師範たちはテコンドーを、ベトナム軍、市民そしてベトナムに駐留していた韓国や他の国々の兵士たちに教えました。ベトナム戦争が拡大するにつれ、ベトナムに送られる指導者の数が増えていきました。1973 年までに 647 名のテコンドー指導者たちがベトナムへ行きました。
彼らの指導で、兵士たちは技術においても、新しく開発されたトゥルにおいても、上達を見せました。韓国人兵士のテコンドー訓練による強さは、ベトコン(南ベトナム解放戦線兵士)に心理的な影響を与えました。テコンドーの訓練を通して、韓国人兵士は良好な健康状態と強い精神力、そして優れた戦闘技術を身につけていました。
ベトコンの指導者たちは兵隊たちに、もし韓国人兵士に遭遇した場合は、戦わずに退却するようにと通達していました。皮肉にも、テコンドーは戦争によって飛躍的に広まりました。ベトナムでテコンドーを学んだ大勢の外国人兵士たちは、後に自分の故国に彼らの指導者たちを招待しています。ベトナム戦争によって、多くの指導者たちは世界中でテコンドーを教える機会を得たのです。
- キム博士:
- 崔将軍、あなたにとって答えにくく、個人的な質問をしますが、韓国からの亡命の背後にはどんな理由があったのですか?
- 崔将軍:
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朴正煕大統領が再選を果たしてから、彼の韓国国内での力が堅固になりました。韓国の政治的風潮から、私が韓国にいて彼の政策を支持しないならば、私は自宅に軟禁されるか刑務所に入れられるかどちらかだろうと考えました。私は彼が、政敵に何をしてきたのかずっと見てきました。このような周囲の状況から、私はテコンドーの奨励や ITF の運営を自由にできなくなる様子でした。
そしてテコンドーは私の人生そのものでした。
選挙の後、朴大統領は、私に代わり大統領警護室補佐官の金鎔采を大韓テコンドー協会の会長に就任させました。それから程なく、大韓テコンドー協会は ITF に干渉してきました。1971 年の 8 月、私は ITF の常任委員会を主宰しました。
この委員会で私は言いました。「委員の皆さん、国際テコンドー連盟の総裁は韓国人ですが、だからといって ITF が韓国政府に支配され、管理されるということはありません。ITF は国際機関であって、私たちの決定にはたとえ圧力があっても、いかなる国の影響も受けません」と。その後、私は秘密裏に韓国を去る計画を立て始めました。
- キム博士:
- 亡命先にカナダを選んだ特別な理由があったのですか?
- 崔将軍:
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ありました。まずカナダは西側諸国の一員だと考えられていましたが、国際的な問題については中立的立場を維持していました。私は、カナダからなら、西側にも東側にも、そして第三諸国の国々にも自由に行かれてテコンドーを普及できると思いました。
2 番目の理由は地理的なもので、カナダはヨーロッパと南アメリカのちょうど中間に位置しています。ですから、それらの国々に行くのに便利でした。
3 番目の理由は、私の愛弟子の Park, Jong Soo がすでにカナダにしっかりとテコンドー協会を創設しており、大変盛況な道場を経営していたのです。ですから、ITF の本部をカナダに移すことをは簡単でした。その後私は、1976 年にカナダのモントリオールでオリンピックが開かれることを知りました。
私は、カナダを基盤にテコンドーをオリンピックの競技に昇格させるいいチャンスが来たと思いました。
- キム博士:
- 予備役二つ星将軍がカナダに亡命したことを知った韓国政府の反応はどうでしたか?
- 崔将軍:
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朴大統領は、韓国へ帰るように私を説得するために、著名な国会議員を私のもとに送り込みました。彼らは、朴大統領が私に、外務大臣や好きな国での大使のポストなど内閣の地位を約束したと告げました。これらの最初の企てに私が反論すると、次に朴大統領は私の中の良い友人を送って私の帰国を説得させました。それも失敗に終わると、朴大統領は私の息子と娘を誘拐し、もし私が戻らないならば彼らの命の保証はしないといいました。
私の答えは、「私は息子よりテコンドーを選ぶ」でした。朴大統領は私の性格と決意を知り、金雲龍氏に ITF と戦うために世界テコンドー連盟(WTF)の創設を命じました。
- キム博士:
- 25 年間の亡命生活で、あなたはどのような苦難に遭いましたか?
- 崔将軍:
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亡命した人間の生活がどれほど孤独なものか、誰にもわかりません。私には財産もなく、笑ったり冗談を言い合ったりする友人もいません。でも私は、韓国を去った自分の決意を後悔したことは一度もありません。なぜなら、私はテコンドーを世界中に広める機会が得られたからです。
そして私は、民族・宗教・国籍そして思想に関係なくテコンドーを教えてきました。この点に置いて、私は世界一幸福な人間ですし、この世界に自分の足跡を残してきたことを誇りに思っています。テコンドーを世界中に広めることは、困難ですが非常にやりがいのある仕事です。
私は常に旅をして、セミナーを開き、演武会を指揮し、大会を主宰しています。私はこれらのことを、KCIA(韓国中央情報部)や韓国外務部から命を狙われる中でやってきました。韓国政府の情報部員は空港の職員に、私が韓国大統領を殺そうとしているテロリスト組織のリーダーで、入国を拒否すべきだと教えました。
彼らは、我々にセミナーの施設を与えないために、体育館の所有者に圧力をかけました。公園でセミナーを開かなければならなかったことが何度もありました。彼らは私の古い教え子を何人か送り込み、何度も私を誘拐しようとしました。私を暗殺しようとした企てもありました。
KCIA の情報部員は海外で教えている師範たちに、私との関係を継続するならば師範たちの両親を脅迫するといいました。情報部員たちはまた海外居住者の師範たちに、もし変わらずに私を支持するならパスポートは更新しないと告げました。ですから時間が経つにつれて、海外の師範たちは私から離れていきました。
韓国政府から私が受けた圧力のせいで私はさらに強くなり、自分の持っているエネルギーをすべて新しいテコンドーの技の開発に注ぎました。
私は世界中で、同じ体系的方法でテコンドーを教えています。