第 5 章    創始者の証言    ~1945~1955:韓国陸軍創設・朝鮮戦争・テコンドーの名称決定


~1945~1955:韓国陸軍創設・朝鮮戦争・テコンドーの名称決定

キム博士:

朝鮮が解放されてから、あなたは学兵隊のリーダーを務めました。そしてその後、あなたは軍事英語学校へ入りました。この時期のあなたの活動についてもっと詳しく教えて下さい。

崔将軍:

私が学徒兵の仲間たちと刑務所を出ると、ラジオを通してソウルの建国準備委員会からの訴えを聞きました。そのラジオ放送は、準備委員会のリーダー、呂運亨(ヨ・ウニョン)さんからソウルに来て委員会を一緒に手伝って欲しいという誘いかけだったのです。彼の指導のもと、社会秩序を維持するため我々は学兵隊を創設しました。なぜなら、国家警察はまだできていなかったからです。

後に呂さんは暗殺され、学兵隊は二つに分裂しました。片方は共産主義を支持し、私が指導したグループは民主主義を支持しました。この任務を通して、私は軍事英語学校校長、リーズ米陸軍大佐と会談する機会を得ました。この軍事英語学校が後に警備士官学校になりやがて韓国陸軍士官学校になりました。私が韓国陸軍創設者、110 名の一人となったのは、この会談のおかげです。

※呂運亨(ヨ・ウニョン)[ 1886 - 1947 ]
朝鮮の独立運動家。1945 年の朝鮮解放に際し、朝鮮建国準備委員会を組織、委員長となる。その後、左右に分裂し混乱した国内の左右合作に努力したが、1947 年、暗殺される。
キム博士:

あなたは陸軍少尉に任官されてから、光州市の第 4 連隊に赴任しますが、その時のあなたの職責と光州での経験を聞かせてください。

崔将軍:

私が光州の第 4 連隊の本部に着任したとき、地域の警察の力が大変よく組織化されていることに気がつきました。彼らはすでに強い力を持ち、軍隊にいる我々よりも大きな権力を手に入れていました。

しばしば警官は兵隊を軽犯罪で逮捕し、罰として殴りました。このようなことは耐えがたいと思い、結果として私は、兵隊は基地から一lで外出しないようにという命令を出しました。

さらに私は、軍の訓練体制の中に唐手(空手)の稽古を含めました。しかし私は内心、空手を教えることを決意した自分を恥じていました。人間として自分は日本を軽蔑しているのに、なぜ部下の韓国人兵士に空手を教えることができるのだろう?これが、私が自分の武道を研究しようと思ったはじまりでした。

私は、科学的な動作と韓国人兵士に合った精神を基本とした、新しい韓国の武道を創りたいと思いました。私は9年もの間この新しい武道を、研究と実践を重ね、さらに磨きをかけました。

結果、1955 年に私は韓国の新しい武道である、テコンドーを創始しました。

キム博士:

1950 年の 6 月 25 日、朝鮮戦争が始まり、それは3年間続きましたが、戦争中の主な仕事について聞かせてください。

崔将軍:

1949 年 6 月、私はアメリカの高等軍事訓練学校に行くようにと命令されました。その命令を受けた頃私は新婚で、妻を残していくのは不本意だと思いました。しかし、私は軍人ですから命令に従い崔徳新大佐の指揮の元、アメリカ行きの船に乗りました。

ある日、航海の途中、私が船の甲板で蹴りの稽古をしている時、片方の靴が足から脱げて空を舞い、太平洋に落ちてしまいました。片足だけ靴を履いているわけにもいかないので、私は残った方の靴も海へ放り込みました。それから自分の部屋へ戻りました・…

アメリカに着くと、我々はまずカンザス州のフォート・リレイにある陸軍士官学校に通い、その後ジョージア州のフォート・ベニングにある高等士官学校へ行きました。軍事訓練の休憩時間に、私は級友たちに唐手の演武を披露する機会を得ることができました。我々は 1950 年の 6 月 23 日に学校を卒業しましたが、それは祖国で戦争が始まる二日前のことでした。

我々は急いで韓国に帰りました。国に帰るとすぐに、私は士官訓練学校を創設するようにとの命令を受けました。その学校の副校長として働いている間に、私は青涛館の創設者である李元國師範の訪問を受けました。

彼は私に、「個人的な理由」で日本に行かなければならないので、青涛館の館長を引き継いでくれないかと頼んできました。私は彼の申し入れを受諾しましたが、自分は陸軍の少将だったので名誉館長となり、青涛館の館長には孫徳成(ソン・ドクソン)師範を指名しました。

我々の軍隊が 38 度線を越えた頃、私は第 1 兵団へ赴任しました。私の最初の仕事の一つは、国連軍の最高司令官だったダグラス・マッカーサー将軍に報告を行うことでした。彼は戦場の最前線を訪れていて、私は彼に戦況の最新情報を報告する役に選ばれたのです。

大勢の国連軍の将校たちが彼と一緒にいました。30 分間の報告の後、私はマッカーサー将軍に何か質問はありませんかと尋ねました。それに対する彼の答えは、「何もない。大変よくわかった」でした。それから彼は私に歩み寄り、握手をしながら私の名前を尋ねました。

キム博士:

あなたは第 29 歩兵部隊を創設し、この部隊は『拳骨(げんこつ)部隊』として知られています。どのようにこの部隊を編成し、そのユニークな記章を創ったのかお話いただけますか?

第 29 歩兵部隊の記章
崔将軍:

1953 年 9 月、韓国陸軍参謀総長であった Back, Sun Yub 将軍より、第 28 歩兵部隊を創設するようにと頼まれました。私は彼に、「この部隊は戦争中に創られる最後の部隊になるのですか?」と尋ねました。彼は、「いや、数ヶ月以内にもう一つ部隊を創る予定だ」と答えました。

そこで私は、自分が最後の部隊、第 29 歩兵部隊を創設できないか、と頼みました。彼は私の要求を承諾してくれました。私が最初に着手した仕事は、他と異なる部隊独特の旗を作ることでした。29 の数字から、数字の 2 は分断された朝鮮半島を表し、9 は自分の拳(こぶし)と見なしました。

私は、朝鮮半島の上にある自分の拳を描いた部隊の旗を作りました。この旗を見た人々は第29歩兵隊に愛称をつけました。「拳骨部隊」もしくは「一拳部隊」と。

私の 2 番目の仕事は、部隊の指揮官を選ぶことでした。隊の軍事訓練を行うための私の補佐役として、私は Ha, Chung Kab 大佐、Kim, Hwang Mok 中佐の助力を求めました。また、兵隊に唐手の訓練を手伝ってもらうために、南太熙師範と Han, Cha Kyo 師範を新しく迎え入れました。この時、私はまだ自分の武道を唐手と呼んでいましたが、技術的な特徴は私がかつて日本で学んだ空手とは全く違ったものになっていました。

私は、士官たちと唐手の指導者たちに、大変明確な指示を与えました。「兵隊たちが唐手の訓練をしているときは、軍隊内の階級には関係なく、全員指導者にお辞儀をするように。道場の外での挨拶は、階級に従って行うこと」。

軍事訓練と唐手の稽古の組み合わせにより、我々の部隊は、韓国軍の部隊の中でも特別に際立ったものになりました。我々は武器のあるなしにかかわらず、戦う準備ができたのです。

キム博士:

1954 年、李承晩大統領は第 29 歩兵部隊による唐手の演武を見た後に、こう感想を述べたそうですね。「あれはテッキョンだね。すべての兵隊はこの武道を訓練すべきだ」この演武と、李大統領の見解の重要性を教えて下さい。※李承晩大統領

崔将軍:

1954 年 6 月、拳骨部隊は済州島を後にして韓国東部の江原道に駐屯していた第 2 兵団の部隊となりました。同年 9 月の半ば頃、第 2 兵団の 4 周年と、第 29 歩兵部隊の一周年を記念して、合同の祝賀会が開かれました。

祝賀会の中で、第 29 歩兵部隊は唐手の演武を披露しました。李大統領は私たちの演武に大変興味を抱かれた様子で、30 分間の演武の間、ずっと立ち上がったままでした。南太熙(ナム・テフィ)師範が彼の拳で瓦を割った時、李大統領は自分の指関節を指して私にこう訊きました。

「ここが、瓦を割るのに使った場所かね?」私は「そうであります!」と答えました。すると大統領は、観客席にいた他の将校たちの方を振り向いて「これはテッキョンだ。私は、すべての兵隊にこの武道を訓練して欲しい」と言いました。

韓国軍の多くの将校たちは、彼らの兵隊に私が唐手を教えることを望んではいませんでした。しかし大統領の宣言により、国のすべての部隊に唐手を紹介することがより容易になりました。

私は、武道の指導者を養成し、訓練をする道場を建てることが必要となりました。第29歩兵部隊が雪岳山の西にある龍台里(Yong Dae Ri)に指令本部を移した際、私は道場を作るように指示しました。私はその道場を吾道館と名付けました。ここで、南太熙(ナム・テフィ)師範が軍の指導者たちに唐手を教え始めました。

李大統領が私たちの武道を「テッキョンだ」と表現したことから、私は唐手にはテッキョンに似た新しい名称が必要だと痛感しました。

私が教えていた技術は、テッキョンというよりも唐手に近いもので、とにかく私には新しい名前が早急に必要でした。

キム博士:

1955 年、あなたは武道の名称制定委員会を組織しましたが、なぜこの委員会を作ったのですか?そしてこの委員会の間に直面した課題は何でしたか?

崔将軍:

ここではっきりと言っておきますが、私は 1946 年に光州市の第 4 連隊に赴任してからずっと、唐手を研究し、訓練し、教えてきました。

私の武道は、東洋の倫理道徳と科学的な原理に基づく技術を基本としていました。李大統領の前での我々の演武は大成功しました。

私はテコンドーという名前を考えだし、1955 年にその武道の新しい名前を発表しようと思いました。しかし、私が自分でその名前を宣言するよりも、名前を決める制定委員会を作った方が良いと考えたのです。

なぜなら当時は、民間の道場の多くが唐手、空手、拳法などの名前を使っていましたし、軍の中にいる多くの将校たちは、私の行動を快く思っていませんでしたから。

委員会は、国会副議長のチョ・キョング氏、連合参謀議長李享根大将、新聞社社長など、著名な人々で構成されていました。私は会合で、テコンドーは蹴る、そして叩くの武道の形を意味していることを説明しました。委員の中には唐手や空手の名称を好んでいた人もいましたが、全員がテコンドーの名称を使うことに賛成しました。

しかし、委員の一人が、名称を李大統領に提出し承認を求めることを提案しました。名称は李大統領のもとへ送られ、大統領はこれを拒絶しました。

李大統領はテッキョンこそが伝統的な武道であり、我々はその名前を使うべきだとしました。私は大統領の補佐官であった Kwak, Young Joo 氏と、大統領警護官であった Suh, Jung Hak 氏に接触し、彼らにこれは新しい武道であり、古い武道であるテッキョンとは全く違うものだと説明し、新しい名称を受け入れるように、大統領を説得して下さいとお願いしました。

最終的に、私は李大統領から新しい、テコンドーの名称の使用許可を受け取りました。

大統領の承認を受け取った後、私は吾道館と青涛館の入り口にあった古い唐手道場の看板を、新しいテコンドーの看板と取り替えるように指示しました。そして私は Nam, Tae Hee 師範に、テコンドーを学んでいる兵士が挨拶をするときにお互いに「テコン」というように、と指導しました。

テコンドーの名称は、吾道館を通して軍隊の中に、そして、青涛館の道場生を通して市民の間に次第に広まっていきました。思い出してみると、私が二つ星将軍であったこと、そして連合参謀長であった李享根大将という強力な友人がいたこと、書道と唐手を通じて李承晩大統領と友好関係にあったことが、テコンドーの名称制定を可能にしたのだと思います。