第1章 武道とは?
1.武道の定義
武道の本質的概念
「武」に携わる者が守るべき道のことである。武術が護身技術や近代以前の戦闘技術なのに対し、武道はそれを扱う者の精神哲学を意味する。また、この精神哲学は、「東洋的倫理道徳観」に求められる。
- 「東洋的倫理道徳観」
- 東洋の国や地域において儒教、仏教、道教、そして現地信仰(神道など)に影響を受け独自に発展を遂げた倫理道徳観を指す。
仁義礼智忠信孝悌
武とは?
「武」を文字で解読すると「武は二つの弋(ほこ)と止めるという意味から為る会意文字…楚子」。また、「武は撫なり。止弋なり。禍乱を鎮撫するなり。禍乱を鎮撫して人道の本に復せしめ、愛撫統一することが武の本義なり」(説文解字:許慎)と中国最古の部首別漢字字典に記されている。
このように「武」は、いたずらに戦い争うことではなく、平和の安定のために戦を止めるという意味である。すなわち、「武」の本質は平和のために守り、備えるということである。
民主主義の台頭による武道定義の変化
過去における武道の特徴は武人(武に携る者;武官、武士、軍人、兵士…)が国家へ対し忠義を尽くすことを第一義とした点であった。しかし、極東アジア地域を中心に西洋的近代文明の流入化が進むに連れ、日本を皮切りに全体主義社会の時代が終わりを告げた。言い換えれば、民主主義の台頭に伴い、「全体主義」に代わって「個人主義」の時代が到来したと言える。そして、遂にこれまで(全体主義社会)の「武道の定義」は大きく変わり始めた。
これまで忠誠心の対象であり、要となっていた、武道精神のよりどころとしての「国家」が崩壊し、このことによって、目指すところの「国家に対する忠誠心」は以前の定義からはずれることになった。すなわち、「守るべき国」は「守るべき個人」となった訳である。これにより国家に対する忠誠心(忠義)よりも礼儀が第一義とされるようになったのだ。
西洋的近代化は、高度な社会的分業化を推し進め、個人主義社会を形成させ、また、すさまじい勢いで科学的進歩を遂げさせた。結果、武術における武器は「無用の産物」と化し、使用される戦闘兵器は以前の刀、槍、弓…などからハイテク兵器に代表される無差別大量殺戮兵器へと変貌を遂げるに至った。
西洋的近代化に伴う欧米文化の流入は即、スポーツ文化の流入へと繋がり、それまでの武道に見られた東洋的倫理道徳観は多くのジャンルの近代スポーツの中にも浸透する形となった。また、これまでの「武道」も国家防衛という大事から個人の護身へと、その規模は縮小され、辛うじて「武道性」を保つ形となった。武道技法は東洋的倫理道徳観を継承した護身術となったのであるが、その多くは西洋的な近代スポーツと融合することになり、競技スポーツと化した。つまり以前の武道は殺法ではなく活法としての「スポーツ」となった訳である。
スポーツとなった武道技法は、本来の殺傷技術の追求や「身命を賭けた戦いにおける覚悟」、「平常心」、「勇気」、「気迫」などのいわゆる「武道性の追求」と、同時に「公正」、「尊厳」、「最善」の精神を謳い、何よりも「楽しむ」という近代スポーツマンシップの条件を消化させるために「安全性の追求」を図らなくてならなくなった。結果、「武道」は幅広い切り口となる殺法と活法の相対する矛盾の「境界線」をルールに定める競技スポーツと化した。
また、一部ではあるが、技術におけるスポーツ化を拒絶し、頑なに武道性のみを固持するもの(日本の合気道、少林寺拳法、中国武術など)もあった。
※日本の合気道・少林寺拳法・中国の武術は、原則として競技をしない。
しかし、その武道技法のもつ技術的優位性を証明する方法は、現在、皮肉にも禁じ手を多く規制する競技スポーツが最も有効とされている。したがって、優位性の証明が困難となった武道技法に関する抽象的論争は後を絶たなくなり、現在ではその「優位性の証明」を競技スポーツの中で見出そうとする矛盾した傾向に陥っている。
現代における武道の定義
護身術および格闘競技スポーツを体得する者が備えるべき東洋的倫理道徳観、またはこの東洋的倫理道徳観を重んじる護身術および格闘競技スポーツの総称。
仁義礼智忠信孝悌